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一.世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと言う事です。
一.世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です。
一.世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です。
一.世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です。
一.世の中で一番尊い事は人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一.世の中で一番美しい事はすべてのものに愛情をもつ事です。
一.世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。

有名な福沢諭吉翁の「心訓」である。
隅越幸男先生(元社会保険中央総合病院顧問)の顧問室に入ると、立派な額に入った毛筆で書かれた「心訓」がある。
先生ご自身の「心訓」でもあったと思われるこのすべてが、私が先生より教えていただいたすべてであると言っても過言ではない。
そのように大きく、やさしく、慈悲深く、そしてとても聡明な先生であったと思う。

 私が先生と最初にお目にかかったのは、父に誘われ参加した昭和60年5月に開催された第1回東北地区肛門病懇談会であった。
父から「もし、お前が私と同じ肛門科医を志すのならば、日本一の隅越先生に教えてもらいなさい」と言われたが、その頃は医師となってまだ5年たらず、まさか先生に師事するとは思ってもいなかった。
それから3年後の昭和63年4月の米沢で開催された先生の講演会において、父と一緒に先生にご挨拶をし その後お手紙を書き、お許しを得て、社会保 険中央総合病院大腸肛門病センターの門をたたいたのが昭和63年の7月1日、暑い夏であった。

 このとき、会津から米沢までわざわざ父と私をご自身の運転する車で一緒に送って下さったのが、のちの私の外科の恩師となる竹田総合病院(副院長)の紙田信彦先生であった。
これもまた何かの縁であり、父のおかげであったと思う。

 そして、京浜東北線の蒲田駅の近くにある牧田総合病院の手術室で岩垂純一先生に「あっ、君か、隅越先生の紹介できた遠藤先生だね」と言われ、私の激動の“社保中時代”が幕を明けた。
その当時のメンバーは、隅越・岩垂両先生をはじめとする佐原・黄田・山本・東・吉永・小路・内山の各先生と私の総勢10名であった。

 診察の仕方から検査まですべて初めてのことで、隅越先生や岩垂先生から教えていただいたことを一言漏らさず必死にメモにとり、振り返る余裕などまったくなく、死に物狂いの日々が続いた。まさに砂漠に水を落とすが如く吸収した時期でもあった。

 1?2か月は後ろでの見学ばかりであったが、その後初めて前立ちをしたときの緊張感、そして何か月かたったであろう、手術において、内肛門括約筋と外肛門括約筋の区別がついたとき、坐骨直腸窩痔瘻の恥骨直腸筋の炎症のあの硬さがわかったときの感動は今も忘れられない。
すべてが新鮮な発見と驚きの毎日であった。

 別な意味での驚きもあった。
週に1回、六本木にある宮島病院に行くときには、何と隅越先生ご自身が我々研修医を車に乗せ、自ら運転をしながら色々なお話をお聞かせいただいた。
そして病院での手術の前立ちをさせていただきご指導を仰ぎ、さらには、それが終わってから、食事をしながらの先生の今までのご苦労話やにがい経験などを拝聴し、まさに夢のような出来事であった。

 先生はとにかく「肛門上皮を取り過ぎてはいけない!」とよくおっしゃっていたのが印象深い。
「取り返しのつかないことはしてはいけない。
もしあとで残れば、2回に分けて手術をしてもかまわないといった考えで、最初は決して無理をしないようにしなさい」と指導して下さった。
先生の手術は大変丁寧で、括約筋とヘモを明確に分けて区別し、誰が見てもわかりやすくそして早く確実な手技が印象に残る。

 先生はまた、「痔の手術は難しいと思われがちだが、やはり名人芸ではなく誰でもができるような手術を模範として全国に普及させていかなければならない」と力説されていた。
さらには半閉鎖術式も大切な良い手技ではあるが、「初心者のうちはオープンでやった方が安全である」ということもおっしゃっていた。

 また、若い女性のスキンタグ(皮垂)切除は、頼まれても安請け合いしない方が良いとも教えて下さった。
術後出血に関しては、「交通事故に遭ったようなもの」と聞かされた。
さらには、今の保険制度にも触れ、手術において合併症をつくればつくるほど、保険点数があがってゆくことを嘆き、「これはおかしいことだね」とも言われていた。

 先生には、医師となり私か初めて術者となったマイルズ(直腸切断術)の手術の前立ちをしていただいたのも良い思い出である。

 7月に来て11月までの5か月間、ほどんどアパートにも帰らず先輩先生方の当直をいただき、その当直費で何とか食いつなぎ一心不乱に肛門病学を勉強した

(注:といっても岩垂先生にも本当によくかわいがってもらい、色々なことを教えていただいたほか、先生には休日の昼メシまでごちそうになったりもして、おかげで「死に物狂い」「一心不乱」の割には、おおいに太った)。

それまで無給で研修をしていたが、隅越先生、岩垂先生、佐原先生のご配慮により12月から、はれて、大腸肛門病センターの正研修医にしていただき初給料をいただき、私はすでに翌年の2月には会津に帰るとわかっていての人事であったので、格別なうれしさがあったのを今でも覚えている。

 年が改まり、昭和64年1月7日昭和天皇が崩御され医局のテレビをじっとくいいるように見ていた先生のお姿も印象的であった。
私は2月で退職したが、会津に帰る前日に夜も遅かったが一人で医局で勉強していると隅越先生が入って来られ、何事かと思ったら、「よく頑張ったね」と先生ご自身の手術の生テープ5本と腕時計を記念にと私に下さった。
涙が出たのは言うまでもない。
一生の私の宝であり、時々そのテープを見ては、先生のことは勿論のこと、社保中時代を思い出している。

 ここでの文章ではまだまだ語り尽くせないたくさんのことを学び、学問としての医学はもとより、医師とはどうあるべきかという人間性についてまでも、先生より学ばせていただいたような気がする。
社保中退職後、地元の竹田綜合病院外科に6年間勤務させていただき、社保中で学んだ技術を紙田先生にも教えていただきそれを実践し、平成6年11月16日に外科・肛門科・胃腸科として開業した。
これもひとえに岩垂先生、紙田先生、そして肛門病学の基礎を教えて下さった隅越先生のおかげと思い、感謝している。

 私は、今まで大変に良い先生と巡り会うことができたと思っている。
隅越先生に会わせてくれた父も昨年8月20日、永眠した。享年76歳だった。すばらしい父だった。

 隅越先生、どうぞいつまでもお元気で父の分まで長生きして下さい。
そして、我々にまだまだ色々なことを教えて下さい。
本当にありがとうございました。