日本に漢方薬が伝わってから、すでに千年以上もたっている。
しかしながら、この長い歴史のなかで、今日ほど国民の間に漢方薬が普及したことがあったのだろうか。
国民一人当たりの漢方薬の使用量がかつてないほど増えただけでなく、現在使われている漢方薬の品質も、大変優れたものになっている。

 今では、全国八十大学医学部すべてで漢方医学教育が実施されている。
また、大学病院における漢方外来も増加しているほどだ。

 その影響で、日本の医療は以前に比べて、はるかに漢方的な「本音の医療」に近づいてきたように見える。
ちなみに、漢方薬を介した漢方治療では、漢方薬を処方する治療者側と、その治療を受ける側との間に、緊密なコミュニケーションと強い信頼関係が必要となってくる。

 その治療を受ける側との間に、緊密なこれは、近年、西洋医学でしきりに言われ始めている「インフォームド・コンセント」に相当するものと言える。
漢方治療の場合は、医師が患者さんに説明するだけでなく、日常生活での「養生」などを通して、患者さんにも積極的に参加してもらうことを求めている。

 つまり、治療や予防に際して、漢方では、患者さんにも 医師と同等の責任を求めるわけで、その点では、西洋医学 の「インフォームド・コンセント」より一歩進んだ考え方といっても過言ではない。

 一方、我が国の「ホスピス」に話を転じてみよう。

 この世に「生」を受ける時は、自分が「意識しないまま」に生まれる。
と言うより、「生かされる」のである。

 人間、「生きる権利」もあるが、自殺は別として「死ぬ権利」もあるのではなかろうか。
人は必ず二度「主役」になれると言う。
主役を自分が意識せずに「生まれた時」とある程度意識して「死ぬ時」である。
「死に様は生き様」とも言われる。
死に直面した時には自分自身が監督となり自分の意思で最高のシナリオを書き下ろし、自分の思い通りに華やかにそして、美しく、かっこ良く死んでゆきたいと思うのは私だけだろうか。

 「日本のホスピス」と「西洋のホスピス」にはまだ文化的な相違もあり、どちらが良いとは言えない。
まだ「ホスピス」という概念では我が国は歩き始めたばかり。

 ホスピスとは「美しい立派な建物で死ぬ」というのではなく、誰でも必ずくる「死に対する準備」をしっかりし、いつ死んでも良いような、自分の意思で自分の最後の幕を引く「そのプロセス自体である」と言う事にその意義と価値があるのではなかろうか。

 東洋医学と西洋医学は各々特徴があり、その歴史や成り立ちも違うが「患者さんを思う気持ち」という点で一致する。
二つの医学の融合で、バランスの取れた医療が進展してしかるべきだと思う。

「会津路にハイカラさんがひた走る」